父と子のお話
○○さんの過去世のお話(ヒプノセラピー)
どっかの時代のイギリスっぽい所の貴族階級ようです。
父はとても厳しく私を教育しました。
怒声の響かない日はありませんでした。
それが愛であるとは思えぬ厳しさです。
私は決して出来の悪い生徒ではありませんでしたが、
父の基準は高く、出来て当然、出来ねば見下され罵られる日々でした。
月日は流れ、私は成長し、父の厳しい教育のおかげで、人並み以上の能力を身に付ける事ができました。
そして、私は父そっくりに育っていました。
能力の低い同世代の友人を見下し、出来ぬ事を罵りました。
友人は私と同じ考えのものばかりです。
暖かな友情とは遠く、冷たい協力関係や優越感を確かめ合う仲間でしかありません。
私が弱わればすぐに見下しの対象になるでしょう。
私も彼らが弱ればそうします。
結婚し、子供ができて私は父と同じように教育しました。
親子の仲は最悪の状態です。
息子は反発し家を出ました。
私は息子の不出来さを罵り憎みました。
消えてなくなるがいいと呪いもしました。
それが本当になりました。
息子が水路にはまって溺死した知らせが来ました。
息子との仲は最悪の状態でしたが、やはり息子を愛していました。
本当はとても悲しい気持ちでいっぱいです。
しかし、それを表現する事はできません、弱みを見せれば喰われる世界です。
私は、冷たくなった息子を一瞥すると、一言罵り背を向けました。
妻も息子を愛していたので、私の態度を憎み、それから言葉を交わすことが無くなりました。
それから、また月日は流れ、私は年老い一人です。
屋敷には使用人が数名いますが、多くいた使用人は、私を恐れ疎んでいなくなっていきました。
娘は嫁に行ったきり連絡は無く、妻もいつのまにか出て行きました。
今の私は誰とも心を通わす相手がいません。
本当の一人です。
それが寂しいことなのか悲しいことなのかもわかりません。
ベットに長くいる日が長くなり、私は亡くなりました。
この人生を振り返り、私が本当にすべきことは、
父の言いなりになるのではなく、話し合い、愛情不和の連鎖を断ち切らねばならなかった。
たとえ、父と上手くやれなくとも息子に違う形の愛を表現すればよかった。
私は「書き換え」を、もう一度やり直す事を望んだ。
私は子供の頃にもどり、父と話し合った。
当然、すぐにいけ入れてはもらえなかった。
罵られ、弱さを責められた。
しかし、私はあきらめなかった。
涙を流しても、訴えかけた。
涙を流す弱さを叱責されもしたが、涙を流せぬ辛さを、
もう私は知っていたから止めることはなかった。
父も愛情と思い罵っていたことが分かった。
他のものに弱さを見せぬために、キツイ言葉になれていればいいと、
厳しい状況を克服する強さをと思っての事だと父は話してくれた。
しかし、私は更に話した。
本当に必要なのは他人の言葉に自ら傷つきそれに耐えれる強さの事ではなく、
他人の言葉を受け流せる強さだと。
小さな1滴の血がでる傷も千も万も積もれば、いつか自らを殺すだろう。
自分を傷つけぬ本当の強さを養うのは、
なにより、父よ貴方の信じているという強い愛情のまなざしだったと。
決して罵倒や罵りでは強い心は育たないと。
父も段々に話してくれて、父もまた同じく育てられたのだという。
それで確かに成功をおさめ、上手くやってこれた。
それゆえに息子にもと思いがあったらしい。
私達親子は何度も話し合い夜を徹することもあった。
教練の時父の言葉に傷ついた時、私は包み隠さずどのように感じ傷ついたのかを話した。
父も私が傷つく弱さを徐々に受け入れ、罵ることはなくなっていった。
そして、私が課題をクリアするまで出来ることを信じ見守ってくれるようになっていた。
私達親子は共に成長していった。
強い絆が私達親子を結んだ。
友人達は私達をうらやんだ。
どうすれば良いのかとも問われた。
私達親子は惜しむことなく経緯を話し伝えた。
関係がなかなか上手くいかないところへは手を貸した。
そうして、気が付くと私達親子の周りは、愛で溢れていた。
もう誰も、見下したり罵ったりはせず、困っている所には手を貸し、
出来ぬのならばアドバイスをし見守った。
次に私は父となり、息子を育てる番となった。
父の我慢や辛抱強さを知ることになった。
父は自分のために、強い辛抱強さで口出しする事を控え、
手出しする事を耐え、必ず出来ると信じ見守ってくれた。
私も同じように息子を見守る努力をした。
そして、自分が聞いて欲しかったように、
小さな息子の話を辛抱強く聞き、受け入れ、意見を交し合った。
父は私と孫を見守ってくれていた。
時に自分の気付かぬ態度を叱ってくれたりもした。
月日が流れ父は老い天へ旅立つ時、私は泣いた。
悲しみを隠さず泣いた。
友人も偉大な父の死を悼んで泣いた。
それが愛の表現であることをもうみな知っていたから。
自分と父のためになくことが出来た。
そして、私が年老いて死を感じた時、もう何も思い煩うことはなかった。
息子が孫達を教育する背を見ていると安心できた。
全て伝えるきることが出来たと確信できる。
きっと孫はさらにその子へ愛と強さを伝えてゆくことができるだろう。
安楽椅子に揺られていた私はゆっくり目を閉じ天へと旅立った。
彼は書き換えにより、別の人生を歩み、癒されて昇華していきました。
彼が今の○○さんに与えていた影響は、
「自分より能力の低いものを見下す」「高圧的」「自分を守るためと恐れにかられて頑張り過ぎる」
「安心できない」「友人を作るのがこわい」「友人を信頼できない」等などでした。
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どっかの時代のイギリスっぽい所の貴族階級ようです。
父はとても厳しく私を教育しました。
怒声の響かない日はありませんでした。
それが愛であるとは思えぬ厳しさです。
私は決して出来の悪い生徒ではありませんでしたが、
父の基準は高く、出来て当然、出来ねば見下され罵られる日々でした。
月日は流れ、私は成長し、父の厳しい教育のおかげで、人並み以上の能力を身に付ける事ができました。
そして、私は父そっくりに育っていました。
能力の低い同世代の友人を見下し、出来ぬ事を罵りました。
友人は私と同じ考えのものばかりです。
暖かな友情とは遠く、冷たい協力関係や優越感を確かめ合う仲間でしかありません。
私が弱わればすぐに見下しの対象になるでしょう。
私も彼らが弱ればそうします。
結婚し、子供ができて私は父と同じように教育しました。
親子の仲は最悪の状態です。
息子は反発し家を出ました。
私は息子の不出来さを罵り憎みました。
消えてなくなるがいいと呪いもしました。
それが本当になりました。
息子が水路にはまって溺死した知らせが来ました。
息子との仲は最悪の状態でしたが、やはり息子を愛していました。
本当はとても悲しい気持ちでいっぱいです。
しかし、それを表現する事はできません、弱みを見せれば喰われる世界です。
私は、冷たくなった息子を一瞥すると、一言罵り背を向けました。
妻も息子を愛していたので、私の態度を憎み、それから言葉を交わすことが無くなりました。
それから、また月日は流れ、私は年老い一人です。
屋敷には使用人が数名いますが、多くいた使用人は、私を恐れ疎んでいなくなっていきました。
娘は嫁に行ったきり連絡は無く、妻もいつのまにか出て行きました。
今の私は誰とも心を通わす相手がいません。
本当の一人です。
それが寂しいことなのか悲しいことなのかもわかりません。
ベットに長くいる日が長くなり、私は亡くなりました。
この人生を振り返り、私が本当にすべきことは、
父の言いなりになるのではなく、話し合い、愛情不和の連鎖を断ち切らねばならなかった。
たとえ、父と上手くやれなくとも息子に違う形の愛を表現すればよかった。
私は「書き換え」を、もう一度やり直す事を望んだ。
私は子供の頃にもどり、父と話し合った。
当然、すぐにいけ入れてはもらえなかった。
罵られ、弱さを責められた。
しかし、私はあきらめなかった。
涙を流しても、訴えかけた。
涙を流す弱さを叱責されもしたが、涙を流せぬ辛さを、
もう私は知っていたから止めることはなかった。
父も愛情と思い罵っていたことが分かった。
他のものに弱さを見せぬために、キツイ言葉になれていればいいと、
厳しい状況を克服する強さをと思っての事だと父は話してくれた。
しかし、私は更に話した。
本当に必要なのは他人の言葉に自ら傷つきそれに耐えれる強さの事ではなく、
他人の言葉を受け流せる強さだと。
小さな1滴の血がでる傷も千も万も積もれば、いつか自らを殺すだろう。
自分を傷つけぬ本当の強さを養うのは、
なにより、父よ貴方の信じているという強い愛情のまなざしだったと。
決して罵倒や罵りでは強い心は育たないと。
父も段々に話してくれて、父もまた同じく育てられたのだという。
それで確かに成功をおさめ、上手くやってこれた。
それゆえに息子にもと思いがあったらしい。
私達親子は何度も話し合い夜を徹することもあった。
教練の時父の言葉に傷ついた時、私は包み隠さずどのように感じ傷ついたのかを話した。
父も私が傷つく弱さを徐々に受け入れ、罵ることはなくなっていった。
そして、私が課題をクリアするまで出来ることを信じ見守ってくれるようになっていた。
私達親子は共に成長していった。
強い絆が私達親子を結んだ。
友人達は私達をうらやんだ。
どうすれば良いのかとも問われた。
私達親子は惜しむことなく経緯を話し伝えた。
関係がなかなか上手くいかないところへは手を貸した。
そうして、気が付くと私達親子の周りは、愛で溢れていた。
もう誰も、見下したり罵ったりはせず、困っている所には手を貸し、
出来ぬのならばアドバイスをし見守った。
次に私は父となり、息子を育てる番となった。
父の我慢や辛抱強さを知ることになった。
父は自分のために、強い辛抱強さで口出しする事を控え、
手出しする事を耐え、必ず出来ると信じ見守ってくれた。
私も同じように息子を見守る努力をした。
そして、自分が聞いて欲しかったように、
小さな息子の話を辛抱強く聞き、受け入れ、意見を交し合った。
父は私と孫を見守ってくれていた。
時に自分の気付かぬ態度を叱ってくれたりもした。
月日が流れ父は老い天へ旅立つ時、私は泣いた。
悲しみを隠さず泣いた。
友人も偉大な父の死を悼んで泣いた。
それが愛の表現であることをもうみな知っていたから。
自分と父のためになくことが出来た。
そして、私が年老いて死を感じた時、もう何も思い煩うことはなかった。
息子が孫達を教育する背を見ていると安心できた。
全て伝えるきることが出来たと確信できる。
きっと孫はさらにその子へ愛と強さを伝えてゆくことができるだろう。
安楽椅子に揺られていた私はゆっくり目を閉じ天へと旅立った。
彼は書き換えにより、別の人生を歩み、癒されて昇華していきました。
彼が今の○○さんに与えていた影響は、
「自分より能力の低いものを見下す」「高圧的」「自分を守るためと恐れにかられて頑張り過ぎる」
「安心できない」「友人を作るのがこわい」「友人を信頼できない」等などでした。
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by yurusupi
| 2010-01-16 14:12
| 過去世